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鷹の目

「鷹の目とビロードの手」を持つと言われたブレッソンの写真は、彼の有名な写真集のタイトルから一般的に「決定的瞬間」と称されてきた。このタイトルはフランス語の原題とは別にアメリカ版に付けられたものであったが、ブレッソンの写真を語るときのキーワードとして一般にも浸透し、ある種の権威となった。だから僕が大学で写真サークルに入った時には、どちらかというとブレッソンは「時代遅れの権威的な写真家」とされていて、「好きな写真家はブレッソンです。」というのはなんともカッコのつかない感じであった。
そう今風の写真ってのはあんな「決定的瞬間」なんていうわかりやすいもんじゃなくて、もっと漠然としたどうでもよい郊外の写真や、十代の女の子なら誰でも撮れそうな極私的なアンチクライマックスなものだって。ブレッソンのような見るからに絶妙な構図で、わかりやすいのはダサいんだって・・・
そんな感じのオサレな写真の雰囲気の中、僕は違和感を抱いてた。ブレッソンの写真が誰にでもわかりやすいだって?それは「決定的瞬間」ってことばでしか彼を見ていないからじゃないのか?彼がとった写真は確かにホンマタカシや佐内正史の写真なんかより、そこら辺のオバさんに見せても好印象を得れるであろう。でもだからといって彼の写真は若者らしくない権威的な古くさいもんなのだろうか。*1
ブレッソンの 写真とともに僅かだが彼自らの写真についての言葉を考えてきた僕にとっては、「決定的瞬間」というあまりに人口に膾炙されてきた言葉は彼の写真を小さな枠 に押し込めているように思われる。確かに日常の一瞬を絵画的に理想な構図に収めたといえば「決定的瞬間」かもしれないが、彼の「日常をシュルレアリストの目で見た」という言葉を考えるに、彼の撮った写真は我々の身近な日常の甘いスナップではないだろう。それは様々な技法によって非現実的なイメージを作り上げたマン・レイやナジのような写真よりも、忠実にシュルレアリスティックと呼べる瞬間を切り取ったもので、さまざまな可能態の中に信じられなく神秘的に存在する客観的偶然なのだ。そのため彼は撮影に関わるあらゆる演出(しゃがんだり、寝そべったりという非日常的な態勢からのアングルもふくめ)、トリミングさえも拒否した。それはつまり、彼にとって良い構図の写真を撮ることは二の次であり、本当に大切なのは日常の中にまるで神が意図したような偶然の一致を見いだすということ。まさに『路上』のディーン・モリアーティのように日常の内に神秘の匂いを嗅ぎ取る事。
このようにブレッソンの写真をビート文学と結びつけたいささか奇妙な美学を持った僕にとって、彼の写真は未だ色あせることはない。以前よりもカメラを持ちながら街を歩くことが減ったとはいえ、僕は今でもブレッソンの美学を通した目で街を歩いている。この無意味とも思える人生、世界の中に一瞬でも神秘的な瞬間、高揚する臭気、「そうだ!そうだ!やれ!やれ!」と叫びたくなる肯定の鼓動を感じ取ろうと。「ビロードの手」は無くとも、せめて「鷹の目」でもって。

– 拾い物 – http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20040807/p1

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今日もまたひとつシャッターチャンスを逃した。
逃したと言うより、根性が無かった。
普段散々しょうもない写真を撮りながら、いざって時に撮れないんだから、どうしようもない。

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