Daily Archives: 2014年4月22日

アーテイストとして生きること

アーテイストとして生きること 宮島達男

1.この国でアーティストがどう生きるべきかリアルに考える。はっきり言って、絵で飯は喰えない。皆分かっているのに、その幻想の旗を降ろさない。なぜか。

2.幻想の原因は美大というよりも、美大の先生方がその幻想を信じているからでしょう。そして、その夢を若い連中に語る。まるで、それを捨ててしまったら、アーテイストではないと思い込んでいるからではないか。ここには、アーテイストという生き方の誤解があるように思う。

3. この幻想「プロのアーテイスト=絵で飯を喰う人」という図式は誤解ではないか。アートは職業になじまない。むしろ、アーテイストは生き方である。自分の生 活は別途、自分で支え、自らの想いを納得のゆくまでカタチにし、他者へ伝えようとする人間。生き方。それは素晴らしい生き方だと思う。

4. そうした生き方と思い定めれば、自由になれる。うまいへた。評価されたされない。売れた売れない。人と比べない。楽しいから描いていた頃。そして見てくれ た人に喜んでもらえたことが幸せだったあの頃。人の評価でなく、自分が良いと本当に思えるものができたときの喜び。それが本当の自由。

5. そうした生き方をした人に、ゴーギャンがいる、ルソーがいる。無数の絵描きがいる。むしろ、ピカソのように絵で喰えた人はまれ。全体の1%もいない。宝くじを当てるより難しい。そんなギャンブルのような賭けに自分のアートを翻弄されてはつまらない。

6. この生き方、絵描きに限らない。評価されるされないに関わらず、自分が良いと思える事を人と比べず追求する。そんな人はもうすでに本物のアーテイスト。そう、実は、アートは絵描きだけの専売特許ではない。誰もがアーテイストに成れる。Art in You

7. そもそも職業とは誰かのニーズがあり、そのニーズに応えて成立するもの。アートには、もともとニーズがない。自発的に想いをカタチしているだけ。だから職 業となじまない。しかし、ごくまれに職業として成立してしまう者が現れる。ここが、幻想を生む原因だ。では、これを、どう考えれば良いか。

8. アートが職業として成立する。それは偶然としかいいようがない。もちろん、作品には「美の基準線」が存在する。作品として成立する最低限の質は昔から変わ らずにある。努力次第でそれは手に入れられる。美大で教育するのはここ。だが、それを満たした作品が売れるかというと、そうとは限らない。

9. 偶然に作品が売れてしまうのは、時代や環境、流行など外的要因が大きい。だから、時代によって評価も変動する。たとえば、最近になって評価が高くなった フェルメール、逆にビュッフェのようなケースも。現在たまたま喰えているアーテイストもどうなるか。喰えることと質とは別次元である。

10. この「質」と向き合うことは、自分と向き合うこと。外的要因ではなく自分の努力で報われる世界。ここは裏切らない。「喰えることは偶然」と腹を決められれば、何も怖いものはなくなる。悲しいのは喰えないことではなく、アーテイストとしての目的を失うこと。

11. 目的を失うと、すべてまわりの責任にする。「環境が悪い」「日本の文化度が低い」「社会が悪い」「マーケットが悪い」・・そして、戦略を巡らし、外堀から埋めようとする。これではいつまでたっても自分の「質」と向き合えず、一流のアーテイストとして生きられない。

12. もちろん、社会構造の問題もあるので、私自身、「文化芸術基本法」の制定や、「文化防衛戦略」への答申、税制の改革など。日本の構造改革にも関わってきた。しかし、それでもアーテイストの生き方の問題は依然として解決しない。

13. むしろ、ア-テイストな生き方をする人が増えてくれば日本の構造も変わる。なぜなら、アートには人を思いやる想像力と、出口の見えない問題を突破する創造 力の2つが獲得できるから。自分と向き合う感性を持った人がたくさん出れば、日本のカタチはすぐに変わるのは当然。

14. だから、すべての人にアーテイストな生き方が必要。「アーテイスト=絵で飯を喰う」という幻想が、すべての人のアート教育の機会を奪う。音楽、踊り、建 築、書、どんな分野でも、人間を人間たらしめる根本の教育。それがアート教育。矮小な幻想を常識と勘違いしてはならない。

15.Art in You. こうしてアーテイストは、たかだか150年の小さな「名詞」の殻から解放され、悠久の大きな「形容詞」に変容する。そして、アーテイストは幻想でなく、リアルな「生きざま」として刻印される。

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読書の時間

読書の時間

読書とは、突き詰めていくと、孤独の喜びだと思う。
人は誰しも孤独だし、人は独りでは生きていけない。
矛盾してるけど、どちらも本当である。書物というのは、
この矛盾がそのまま形になったメディアだと思う。
読書という行為は孤独を強いるけど、独りではなしえない。
本を開いた瞬間から、そこには送り手と受け手がいて、
最後のページまで双方の共同作業が続いていくからである。
本は与えられても、読書は与えられない。
読書は限りなく能動的で、創造的な作業だからだ。
自分で本を選び、ページを開き、
文字を追って頭の中で世界を構築し、
その世界に対する評価を自分で決めなければならない
それは、群れることに慣れた頭には少々つらい。
しかし、読書がすばらしいのはそこから先だ。
独りで本と向き合い、自分が何者か考え始めた時から、
読者は世界と繋がることができる。
孤独であるということは、誰とでも出会えるということなのだ。

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