大企業に勤める父は優秀な社員だったようで、幼稚園か小学校低学年くらいの時、ハワイで行われる表彰式に何度か自分も連れられて行った。幼かったのでほとんど覚えていないけど、ワイキキのビーチで寝転びながら父が買ってきてくれたマクドナルドのハンバーガーセットを食べたのはよく覚えている。アメリカのコーラはSサイズでも日本のLサイズくらい大きいというのは人生で初めて感じた異文化かもしれない。

もう一つだけ覚えているのは祖父と祖母も一緒にハワイにいった時のことだ。隣り合った別々の部屋の、その間の壁に普段は鍵のかかったドアがあって、それを開放することで大きなひとつの部屋として借りていた。当時はまだそういうスタイルがあった、と勝手に記憶しているが小さい頃の記憶なのであまり確かではない。

朝、目が覚めたとき、自分と祖父が寝ていた部屋に父がおはようさんと言いながら入ってきて、よく寝れたかと聞いてくれた。目をこすったら目の周りを一周するようにたくさん目ヤニが付いていて、ボロボロと目ヤニを落とす感覚の気持ち良さを妙に覚えている。壁もシーツも全部白くて、真っ白な部屋だった。

あの日のあの朝の、あの一瞬のことだけは、不思議なほど良く覚えていて、幼少期のことをあまり覚えていない自分にとって、数少ない記憶となっている。僕はいつも、人生のあるポイントである日目が覚めて、あの朝に戻るような気がしている。マトリックスから覚めるみたいに、今まで生きた人生が嘘だったり、ただの長い夢だったとき、目が覚めるのはあのハワイのベッドだと思っている。

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生きるっていうのは水に触れらること。冷たいなと感じられること。
猫を撫でられること。ひだまりの中の揺れる木々を見つめられること。
トラムの音が聞こえてくるということ。
すべてを五感で精一杯感じることだ。
かけがえのない肉体を存分に味わうことだ。

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どこをめくってもアンバランスばかり目に入ってくるぼくらの存在、それへの感受性が<衣服>という支えを呼び込むのだけれど、衣服はそのアンバランスを裏返し、ぼくらの小さな<自由>に変えてくれる。その自由とは、時代が陰に陽に強いてくるあるスタイルへの閉じ込めに抗って、「こんなのじゃない、こんなのじゃない」とつぶやきながら、たえずじぶんの表面を取っ換え引つ換えする、あのファッション感覚のことだ。それは、人生の「はずれ」を「はずし」へと裏返す感覚だ。じぶんが背負ているさまざまの人生の条件、そこにはひとそれぞれ、いろんな不幸、いろんなハンデがある。
そういう「はずれ」を、軽やかで機知にとんだ時代への距離感覚(「はずし」)へと裏返す感覚、それがファッション感覚だとすれば、もっともスマートなひと、流行にそつなく乗り、いずれマジョリティもしぶしぶついてくるはずのものをいち早くとり入れるスタイリッシュなひと(流行人間)が、じつはもっともアンファッショナブルであるという事実は、逆説でもアイロニーでもないのだ。
はずすこと、ずらすこと、くずすこと。それは職人の美学であり、ダンディズムの極であると同時に、弱きものの抵抗であり、そして着るひとの第一歩でもある。

「ちぐはぐな身体」- 鷲田清一 –

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じぶんの身体というものはその全体をじかに経験できるものではなく、想像的な<像>としてしか可能ではないということ、そしてこの身体イメージこそわれわれが着る最初の服だということをおもいだそう。身体とは断片的な知覚像を想像力をもちいて縫合したものにほかならず、したがってそういう<像>としての身体のシミュレーションという点では衣服と刺青に本質的な差異はない。もし衣服が見えない身体の外皮であるとすれば、ピアシングをその見えない身体に施された刻印としても同じことなのだ。魂にしても身体にしても、表面のこうした変工によってはじめてかたちを与えられるのだから。

「ちぐはぐな身体」- 鷲田清一 –

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人は肉体以外には存在価値はない筈です。食うこと、セックス、排泄、それ以外は不必要です。つまり、人間のうごきは、めし食うこと(なるべくうまいもの、うまく食わなければ損です。)くそ、しょんべんをすることザーメンを出すことの3つのうごきだけです、それ以外のこと、勉強仕事はその3つのうごきのためについてまわる動作です。

「人間滅亡的人生案内」- 深沢七郎 –

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だから、幸福だとか、退屈だとか、と考えることがいけないのです、否、そんなことは考えなくてもいいことなのです。否、考える必要がないのです、否、幸福だと思うとき、退屈だと思うとき、それは意味のないうごきだからどちらも同じなのです。そんなことは考えなくてもいい、もし、考えても区別したりすることは出来ません、どちらも無という意味のないうごきなのだから。

「人間滅亡的人生案内」- 深沢七郎 –

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また、「自分が安っぽい人間に思えて毎日がいやになる」なんてとんでもない考えです。安っぽい人間ならこんな有難いことはありません。安っぽいからあなたは負担の軽いその日その日を送っていられるのです。
安っぽい人間になりたくてたまらないのに人間は錯覚で偉くなりたがるのです。
心配なく現在のままでのんびりといて下さい。いちばんおすすめすることは行商などやって放浪すること、お勤めなどしないこと、食べるぶんだけ働いていればのんびりといられます。

「人間滅亡的人生案内」- 深沢七郎 –

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